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山形県立新庄病院ブログ

2016.5.31

一筆啓上

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当院の廣野研修部長から投稿がありましたので、ご覧ください。

廣野部長が、如何に家族を、地域を、そして新庄病院を愛しているかが、犇々と伝わってきます。

特に医学生の皆さんに、お読みいただきたいと思います。

当院の研修医担当部長は、このような素敵な指導医です。

是非、病院見学に来て廣野部長と交流してください。

 

ドクター若連 (新庄市 廣野摂)

新庄まつり

地元新庄に戻って丸八年、「今何をしているの?」とよく聞かれますが…人生の総決算をしています。まだ若いのに…と笑われそうですが。生まれ育った地域社会と病院に、義を果たし、何を残せるか…それが私の行動根拠です。地域活動と病院の仕事の精神的比率は…それはもう季節によっては書けません(苦笑)。「ちょっと違うんじゃねーの」と怒られそうです。故郷存亡の危機に際し、今は全員が一兵卒になるべき時でしょう。

「あの人誰だっけ?」「ほら、廣野医院の息子さんよ、今県立にいるよね」

病院からの帰途、よくこんな声が聞こえてきます。地元っ子に、こんなことを言わせておいて、本当に自分は地域に戻ったと言えるのでしょうか? 私はそんな扱いは絶対に嫌でした。我慢ならなかった。

祭りが好き、山車(やたい)が好き、囃子が好き。七月は期待に心躍る季節です。歳月を経る毎に、自分の中の「祭り遺伝子」が蘇ってくるのを抑えることが出来ませんでした。ある日、押し入れの御詠歌集の影から、我が町内の古い写真と法被が出てきました。祖父が若連(山車作りを中心とした、様々な伝統行事を継承するための、町内有志連合)の中央に鎮座している、おそらく昭和初期の写真です。古い法被は、今の私の体格に驚くほどピッタリでした。

思い切って山車小屋に行こうと決心しました。でも一人では恐くてとても行けなかった。そんな時、可愛い社交的な娘が一人いて、とても助かりました。

[娘]「何かやれることありますか?」

[皆、娘の方だけみて]「やっぺやっぺ、こっちゃ来い!」

「廣野さんだべ、俺のことおべった?、当然手伝わなんねべや」小学校時代の先輩が掛けてくれたこの一言は、手探りの私にとって唯一の光明でした。

新しい仲間たちと娘のおかげで、晴れて地域社会の仲間入りを果たした私ですが、さて、若連行事のたびに不可思議な既視感を経験するようになりました。小学校六年間でさえ重なっていない仲間たちの風貌・人相に、懐かしさを覚えるのです。

[Aくん]「廣野さん、今回の花もらい(山車制作のための寄付集め)は俺と一緒に大通りの左側チーム頼むな」

[Bさん(四十年前)]「廣野くん、今回から俺さついて歩いて、花もらいの仕事覚えてけろな」…タイムスリップしたようなこの感覚……そうか、A君はBさんの息子さんだったのか! この瞬間私は、親から子へ、世代から世代へと受け継がれる新庄祭りの長い長い歴史の一頁を肌で感じ感激しました。

一方、勤務医生活と地域活動の両立は難しいものでした。私は新たな苦悩を背負い込むことになりました。所詮、若連というものは、一~二回手伝いにいけば存在を認めてくれる、そういう世界ではないのです。映画「ラストサムライ」で、結果的に明治維新から取り残されていってしまった集落…若連にはそんな臭いがあります。「一回手伝ったくらいじゃ誰も口聞いてくれねーしよー、俺そういうの嫌だから絶対祭りには関わんねのよ、先生も気を付けた方がいいぞ」 八年前、歓迎の酒を酌み交しながらアドバイス(?)してくれた先輩が何人かいたことを思い出しました。遅きに失した回想でした。

「新庄祭りはそれでいいなだ(いいんだよ)!」 私を肩車しつつ遠い眼をした祖父が語ってくれました。「ド田舎の伝統芸能なんだから、偏屈やろどもだらけで当たり前だべ。照れでんなよ。入っていげ。おめは新庄の子どもだべや。山車小屋には、古(いにしえ)の日本文化、歴史の窓があんなよ」 夢の中の祖父に突き動かされ、私は、七月になると可能な限り連夜のように、鋸の音が響く若連小屋に行き、世間話をしながら、山車制作を手伝うようになりました。

所詮、廣野家は天保三年(一八三二年)に、新庄市在郷の萩野村(独特の祭り囃子で有名な地域)から、現在の下金沢町(山車製作を担当する地域)に分家してきました。私には、名曲「二上がり」の響きに涙する血も流れていたのです。ついに私は、下金沢町有志で結成する「囃子クラブ」に参加し、篠笛の練習まで始めてしまいました。最近は、わずかな笛の音の違いに納得出来なくなってきている自分に驚愕することしばしばです。因みに娘は太鼓が好きです。夜遅くなり、小学校理事(健全育成部長)の妻を毎日イライラさせながら、故郷の生活を味わっています。娘が、新庄祭り初の女親方に育ってくれないかなあ…。

「涼月夜、山車に光る髭切りの太刀、祭心震わん、鋸(きょ)笛(てき)の音色」

現在私は、地元の県立病院において、教育研修部長の職にあります。学生や若い医師達が、この町に定着してくれるように、魅力を伝え研修のお手伝いをするのが仕事です。しかし、一度管外に出て行った若い医師達はなかなか帰ってきてはくれません。一方、山車製作に参加している一家の子供たちは皆、この町に帰ってきます。少子化の波から故郷を沈没させないために、我々は何をすればいいのでしょうか?私は一つ悟りました。地域活動を自らやらない親の背中を見て、将来地域を担う子供たちが育つ訳がないのです。若連に参加した五年前から、少しずつ自分の中で、そのような精神性が育っていきました。

 【まとめ】

遊んでばかりいる訳ではありません(笑)。この原稿が、「遊びの釈明」と解されたら心外です。昨年私は、母校日新小学校(在校生いまだ約七百名)の校医に就任しました。勤務医としては物好きで希有な存在でしょう。若連として、校医として、一人の勤務医が地域社会に溶け込むことは、「地域との仁・愛・和」を力の源とする病院の将来にとって、必ず役立つものと信じて行動しているのです。我ら竹の一節は、細く長く、子ども(後輩)たちを見つめ続けることが出来る故郷が存続することを願います。古の精神性を有する新庄の土に還らんことを望みます。

【追】

七月、八月は強い遺伝子制御がかかる時期ですので、管外からの仕事依頼は可能な限り御遠慮ください(笑)。

【了】

二〇一六年文月

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